カジマヤー迎えた元ひめゆり学徒 薄れゆく体験つづり
戦世から80年つなぐ記憶です。沖縄戦で看護要員として動員された元ひめゆり学徒の川平カツさん。今年カジマヤーを迎え、記憶が薄れゆくなかで家族とともにまとめた一冊の本ができあがりました。そこにはカツさんしか知りえない目をそむけたくなるような戦争の記憶がつづられていました。
今年6月23日の慰霊の日。糸満市にあるひめゆりの塔の慰霊祭に参列したのは元ひめゆり学徒の川平カツさん、95歳です。慰霊の日には石垣島からできるだけ足を運び、亡き友に静かに手をあわせます。
川平カツさん「あの頃はもう大変よ。なんでそんなことを覚えているのかなと思うぐらい。」
1945年の沖縄戦では那覇市安里にあった沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒や教員あわせて240人も看護要員として動員され、136人が命を落としました。当時、沖縄師範学校予科2年生で16歳だったカツさんもひめゆり学徒隊のひとりでした。
川平カツさん「(亡くなった友人は)いっぱい。こんなに大きな慰霊碑があるでしょ。戦争は絶対にね、書いて、話しない方がいいさ。話しても分からんの。」
いまでは高齢で多くを語ることはできないカツさん。記憶が薄れる前にと7、8年前から自身の人生や戦争の体験を家族と一緒にまとめた一冊の本ができあがりました。
つづられているのは生々しい戦争の記憶です。
「壕に配置されてからの私達の生活は空襲と爆撃、爆弾の炸裂する音、看護活動に明け暮れ、壕の中では座ったまま寝て、手足をのばして横になることなど一度もありませんでした。」
「どろんこのジメジメしたところに板のようなものを敷き、その上に座ったままの人、ジメジメした壁にもたれている人……。その惨めさといったら、どんな言葉で表現していいやら、生まれて初めて見る人間の哀れさ、生き地獄でした。」
カツさんは家族にも戦争について語ることはほとんどなく、東京で編集の仕事に携わる姪のいつ子さんがその記憶をまとめてほしいとお願いしました。
川平いつ子さん「叔母が学徒隊の体験者だというのを前から知ってはいたんですけれども具体的なことをゆっくり聞く時間もなくて。原稿書いてと言ったら、本人もすごく頑張って書いてくれて。」
記憶をたどり1年ほどかけて書き上げたのは八重山で過ごした幼少期の何気ない暮らしや壮絶な戦争の記憶。脳裏に刻まれた光景がことこまかに綴られています。
川平いつ子さん「息をのむような場面も体験しているようですのでね。十五、六でそんな事をよく頑張ってやれたんだなと感心しました。」
砲弾の雨の中で移動せざるを得ないこともあり多くの学友たちが命を落とす瞬間を目の当たりにしました。
「一高女の町田トシさんが、大きく息を吸い込んだと思ったら、どさっと倒れました。山入端さんでしょうか、「あごがない、あごがない」と言いながら血だらけになっています。周辺はケガ人続出で、手がやられたとか、耳がないと叫ぶ声、地獄を見るようです。」
解散命令により戦場をさまよっていた6月21日。投降をよびかける米兵が壕に迫ってきたとき自決を考えるも、7人いて手りゅう弾はたった1つ。「死にきれないかもしれない」という考えがよぎったといいます。
「わたしたちは、死よりも怖いのは、ケガをすることでした。負傷兵の世話と蛆のわいた傷口を見てきたからです。米兵を目前にして、焦りました。死ぬことが当然と思っているわたしたちですので、どうにかして死ぬことしか頭がはたらかないのです。
一緒に壕の中にいた日本兵から「米兵は民間人には害を与えないから」と諭され、最終的には捕虜になり生き延びることができました。
戦後は教師として38年間勤め上げたカツさん。学校での平和講話にも力を入れ、戦争の体験を語り、平和の尊さを伝えてきました。
川平いつ子さん「戦争は絶対許しませんというのが(講話の)一番最後の締めの言葉だったようですのでね。そういう想いがずっと気持ちの中にあったと思いますね。」
カツさんの思いが詰まった本を活用して欲しいと11月、娘の啓子さんなどからひめゆり平和祈念資料館に贈られました。
カツさんの娘大浜啓子さん「母ながら、大変な体験をしてきたんだなというのを感じました。日頃、平和の大切さというのはよく言っていたのでそこは引き継いで。平和に関することはどんどんやっていかないといけないなと思っています。」
ひめゆり平和祈念資料館 普天間朝佳館長「やっぱりカツさんしか分からない記憶というのがこの本にはあるなと思いました。また次の世代に、沖縄戦の体験、ひめゆり学徒隊の体験を伝えていくときに非常に重要な資料になるんじゃないかと思っています。」
今年めでたくカジマヤーを迎えたカツさん。いつまでも平和な島であるように…思いを込めて書き上げた言葉が消えることのない戦争の記憶を次の世代へと繋いでいきます。
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