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OTV報道部

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ローカル放送からわずか14年。テレビは地域に情報を伝える重要な役割を果たしているか?開拓125周年の南大東島

開拓125周年の南大東島 沖縄のローカル放送始まって14年 暮らしにもたらした変化

目次

2025年に開拓125周年を迎えた大東島。

実はテレビのローカル放送が見られるようになったのは、わずか14年前。

ローカル放送が島の生活にもたらしたものを探った。

開拓125年 さとうきびの島

1900年に八丈島の人が上陸し開拓された南大東島。同時にサトウキビの栽培も始まった。

開拓125周年の南大東島 沖縄のローカル放送始まって14年 暮らしにもたらした変化

1970年代からハーベスタが導入され、今では刈り取りも植え付けもすべてが機械化された。

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収穫期には製糖工場が休みなく稼働し、先人が切り開いたサトウキビ栽培は今も島の経済基盤となっている。

2025年1月。開拓125年を祝う式典が開かれた。

出席した伊佐キヌさんは島の最高齢者。

伊佐キヌさん
「100歳とちょうど2か月です」

大正14年生まれの伊佐キヌさんは初代村長・伊佐栄久さんの妻であり、兄・喜納勉さんも第5代村長を務めていた。

開拓125周年の南大東島 沖縄のローカル放送始まって14年 暮らしにもたらした変化

沖縄テレビに残る南大東島の映像をキヌさんに見てもらった。

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キヌさんの目に留まったのは、アメリカ施政権下の沖縄で絶対的な権力を持っていたキャラウェイ高等弁務官。

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キャラウェイ高等弁務官が南大東島を訪れた際に出迎えた男性こそ、キヌさんの兄だった。

伊佐キヌさん
「私の兄が村長をしていましたが、キャラウェイ高等弁務官から何かをいただいていました」

「沖縄の自治は神話」など強権的なイメージが強いキャラウェイ高等弁務官だが、南大東島では長年にわたる大日本製糖と農家の土地所有権問題を円満解決に導いたことで知られる。

伊佐キヌさん
「感じの良さそうな人でした。沖縄本島では厳しいとか言われて信用がなかったみたいですが、大東では土地の所有権問題で活躍してくれたので、とても喜ばれていました」

開拓125周年の南大東島 沖縄のローカル放送始まって14年 暮らしにもたらした変化

1970年代には海外からの作業員が来なくなり、島の人々は人手不足に悩んでいた。

伊佐キヌさん
「台湾から作業員が来て、その次は韓国から来て、さらにその後に機械が導入されました。それからは、手で刈る人はいなくなりました」

沖縄テレビに残るかつての島の姿を映した映像。実は14年前まで大東島地方ではこのローカルニュースを見ることができなかった。

沖縄本島から遠く離れているため沖縄圏域の電波が届かず、島の人たちは衛星経由で東京発の放送を見ていた。

南大東島の女性
「沖縄の様子が全然分かりませんでした。一番困ったのは気象情報でした」

ローカル放送がやってきたテレビ界の技術革新

南大東島のテレビ事情が大きく変わったのは2011年。

沖縄本島と南大東島の間に400キロの海底光ケーブルが敷設され地上デジタル放送の準備が始まり、ようやく沖縄県内の放送が見られるようになった。

南大東島には高校がなく、中学を卒業すると多くの子どもたちが進学のために島を離れる。

以前は、テレビに映る予備校のCMや学校紹介が東京の放送だったため進学のイメージがわかなかった。実際に見学へ行くことも容易ではなかった。

しかし今では、テレビを通して沖縄本島の学校の様子を知ることができる。画面越しに生徒たちが笑い合い、部活動に励む姿を見るうちに「この学校、雰囲気が良さそうですね」と感じられるようになったと島の男性は笑顔で話した。

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沖縄本島の情報が日常的に届くようになったこと。それが離島で暮らす人びとにとって大きな安心や喜びにつながっている。

テレビの話題をきっかけに、家族で進学や将来について話す機会も増えた。

ローカルの情報が届くようになったことで、家庭での会話にも自然と変化が生まれている。


「こんな感じ(沖縄戦)のニュースも親近感が湧きます。ガマとか。中学校の校章ということは、中学生かな」


「校章って何?」


「学校のマークだよ」

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ローカル放送が始まった年に生まれた中学生たちにも話を聞いた。

金城わか菜アナウンサー
「最近、気になるニュースはありましたか?」

生徒たち
「ジャングリアに行ってみたいです」
「アゲアゲめしは毎週見ています。料理がおいしそうでいつか行ってみたいなと思って、親に勧めていますがまだ連れて行ってもらえていません」

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春から中学3年になる玉那覇琥珀さん。高校は本島の陸上強豪校を目指している。

玉那覇琥珀さん
「最近、おきなわマラソンの放送があってそれが一番印象的でした。自分も走ってみたいなと思いながら見ていました」

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そう語る玉那覇琥珀さんは、開拓125年の節目を記念して製糖工場から港までの3.7キロを島民でつなぐバケツリレーを企画した。

開拓125周年の南大東島 沖縄のローカル放送始まって14年 暮らしにもたらした変化

バケツの中に入れたのは、工場で作られた原料糖。

この原料糖は全国のメーカーへと出荷され、砂糖などの製品になる。

金城アナウンサー
「サトウキビの産業というのは誇りであり自信なの?」

生徒たち
「はい、誇りです」
「私は香りが好きです。工場から香りがしてくると、久しぶりに島に帰ってきたときに、“ああ、大東だな”と感じます」

生徒たちはやがて島を離れる日が近づいている。

みんなで過ごす時間が限りあるものだとわかってるからこそ、輝いて見える日常の風景がある。

男子生徒:
もっと島が有名になって、みんなが楽しめるような場所になってほしいです

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島の人が帰省しイベントなどを通じて島に活気が戻る。そこに観光客が訪れるような未来を若者たちは思い描いている。

多くの情報が届くようになった今、これからは南大東島からの発信がより期待されている。

かつて島の人びとが切望した沖縄のテレビのローカル放送は今では当たり前のように流れ、暮らしの中にすっかり溶け込んでいる。

インターネットやSNSなど多様なメディアから情報を取り入れることができるようになった今でも、ローカル放送は地域に根ざした情報を伝える重要な役割を果たしている。

そして、南大東島の人びとが他の地域にはない、自分たちの故郷の魅力を改めて認識し、共有する手助けとなっている。

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