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あけぼのを あけもどろうぞう ゆめにみて~助産師・末吉美代~
大正時代から多くのウチナーンチュが移り住んだ神奈川県川崎市で結成された「川崎沖縄県人会」が今年100年の節目を迎える。戦前・戦後と故郷を離れた人々の心の拠り所となったコミュニティには、様々な人間ドラマがあったに違いない。川崎で助産師として多くの赤ちゃんを取り上げながら、沖縄の復帰運動にも関わった初代・川崎あけぼの婦人会・会長の末吉美代さん(故人)もその一人だ。娘の仲田恵美さんや川崎沖縄県人会が所蔵する記念誌等から故人の足跡をたどる。


伊是名島出身の末吉美代さん(旧姓:宮城)が生まれたのは1906年(明治39年)。当時、女性が進学する事があたりまえではない時代に、沖縄本島で学問に励み、その後は東京で働いた。1927年(昭和2年)、同じく伊是名島出身の末吉平太郎さん(故人)と結婚し、一男二女に恵まれた。しかし平太郎さんは若くして急逝してしまう。
娘・仲田恵美さん
「手に職をつけなければ、子どもを育てることができない」という思いで母は必死だった。母は私たち子どもを伊是名島の親戚に預けて、再び一人で上京した。
女手ひとつで3人の子どもを進学させるために末吉美代さんが選択したのが「助産師」だった。多くの子どもを出産することがあたりまえだった風潮も
彼女の決断を後押ししたのではないだろうか。我が子と離れ離れに暮らす寂しさを我慢して「助産師」の資格を取得した美代さん。川崎沖縄県人会関係者の協力のもと1938年(昭和13年)晴れて川崎市中島町に「末吉助産院」を開業した。助産院が軌道にのると、島から子ども達を呼び寄せ、家族水いらずの生活を送ることができたという。


娘・仲田恵美さん
「40年以上の助産師人生で母が取り上げた赤ちゃんは8000人あまり。中には川崎で生まれ育った県系2世や3世・4世もいて、彼らの人生に関われたことが誇りだったと生前自慢していました。」
戦後、美代さんが力を入れたのが、沖縄の祖国復帰運動だ。
川崎沖縄県人会が結成70年にまとめた記念誌「川崎の沖縄県人 70年の歩み」に当時の思いを綴っている。

末吉美代さん ※引用:「川崎の沖縄県人 70年のあゆみ」
「米国の占領下におかれた沖縄と私たちとの連絡は途絶え、その安否すら知るすべを失ってしまったのでした。当時、異郷の地に取り残された同胞の故郷へよせる安否の念は、望郷の思いと共に、想像を絶するものがありました。」
戦後、国内では女性の参政権が認められ、女性を主体とする運動が各地で活発になった時代。女性が自分の考えを主張する風潮は全国的に広まる中、1953年(昭和28年)「川崎あけぼの婦人会」が産声をあげた。末吉美代さんは初代会長として、東京沖縄県人会など関係団体と復帰運動に係る事になった。

娘・仲田恵美さん
「母は助産師の仕事がおちつくと、すぐ自転車に乗って、復帰運動の集会などに顔を出していたのでほとんど家にいなかった。炊事・洗濯など家の仕事は子供たちでやっていた(笑)」

「川崎の沖縄県人 70年の歩み」には、復帰運動の一環として、
「川崎あけぼの婦人会」が他の婦人団体と共に「沖縄返還運動行進」や佐藤首相(当時)に陳情を行う等、20年余りにわたる活動の記録が残されている。

娘・仲田恵美さん
「1972年、沖縄が復帰を迎えた日。当時、いろんな意見があったが、母は、苦しくも長い運動を振り返り、涙を流していました。」
復帰から1年後、「川崎あけぼの婦人会」は目的が果たされたとして、発展的解消をした。末吉美代さんはその後も助産師を続けながら、沖縄と川崎の交流に努めた。今から30年前の川崎沖縄県人会創立70年の節目に末吉さんは次の唄を寄せている。
七十年(ななとせ)の あゆみにのせて はらからの
そのあしあとを 語りつたえん
同胞(はらから)よ いばらの道を 手をとりて
あゆみきたりし いまぞかたらん
あけぼのを あけもどろうぞう ゆめにみて
はたさず 老いし もどかしきかな
※出展:「川崎の沖縄県人 70年の歩み」


沖縄と川崎のかけはしとして活動してきた「川崎沖縄県人会」
激動の時代を生き、沖縄へエールを送り続けてきた先人たちの思いは
今も続いている。

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