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宮里辰彦 ~良い商品を沖縄県民に!「舶来品のリウボウ」誕生の立役者~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「流通」をテーマに、今日の生活にも馴染みの深い沖縄県内を代表する流通小売業3社の創業者をご紹介。
いかにして本土復帰前後の時代の変わり目を乗り越えてきたのか、3人の強者の苦難や葛藤、決断の物語を紹介します!
はちゃめちゃでパワフルな男たちの物語!
「流通」の強者(チューバー)2人目は、宮里辰彦!!

宮里辰彦は、1917年(大正6年)那覇市垣花町生まれ。
東京帝国大学を卒業し、日本興業銀行から日本軍部の財布を握る軍需省の官僚、という華麗なキャリアのウチナーンチュである。
帰沖後は琉球貿易庁総裁を務め、その後父から引き継いだ琉球貿易商事株式会社を経営難から立て直し、現在のリウボウの発展に大きく尽力した。
未来溢れる優秀な青年・宮里辰彦の人生を翻弄した第二次世界大戦
1936年、東京帝国大学(現:東京大学)に入学した宮里。
ちょうど上京した頃、二二六事件が発生。軍部の政治関与の強化に繋がり、日本は後の戦争へと向かっていく事となる…。
大学卒業時に海軍に応募し徴兵検査を受けた宮里。
しかし結果は、不合格。
一緒に受けた友人らは合格し海軍に入隊したものの、半分以上が帰らぬ人となったという…。
日本興業銀行時代も仕事仲間が次々と軍に召集され、「仲間が命を落とす中、なぜ自分だけ…」宮里は自分を責めていた。
戦局慌ただしくなった1943年(昭和18年)、宮里は銀行を退職し軍需省に入った。
限られた資源を調達し、陸海、航空軍部にどう分配して活用するかが主な役割。
頭脳明晰で数字に秀でた宮里は、重要なポストとされる軍需省福岡管理部に配属されたが、着任と同時に愕然としたのである…。
陸、海、それぞれの軍部の資材奪い合い。
役人は権力を振りかざし、民間から来た宮里らに圧力をかけた。
そして、宮里は職務上、軍需生産の資料を読み洗いざらい調べ上げるとさらに愕然とした。
当時の日本に勝ち目はないことが数字の上からも理解できたのである。
送り出した仲間の顔が、さらに宮里を苦しませた。
1945年終戦。この時宮里は28歳。
軍需省が解体され、宮里の荒んだ心は故郷沖縄に向いていた。
死んでいった仲間、未来見えぬ日本に深く傷ついていた。沖縄に戻る決心をしたのであった。

沖縄に戻った宮里が、その後どのような形で沖縄の”流通”に関わっていったのか。
そのほか、宮里辰彦のチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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